IV 結語

本研究では、チョコレートを通して見えてくるトリノの生活文化を考察し述べてきた。文化というものはすぐにできるものではない。長い歴史の中で時間をかけて、人々の生活の機微を反映しながら創られていくものである。筆者は、1993年~1995年の間トリノに滞在していたが、トリノのチョコレートがもたらす文化を無意識のうちに享受し楽しんでいた。

本研究を通して、これまでは見えてこなかったトリノ市民とチョコレートの関係、そこからもたらされる市民のアイデンティティに迫ってみた。トリノ市民はよく食べよく遊ぶ。家庭で、職場で、カフェ、バールで口にするチョコレートを通して、コミュニケーションが生まれ、地域のコミュニティが創られている。また、チョコレート企業の理念からも見えてくるのが各企業、戦略・ブランディング方法など違いがあっても共通してあるのは、引き継いだ伝統を守り、質を守っていく頑な姿勢である。

これは、台頭するグローバリゼーションの中で逆行していることかもしれない。しかしながら、事業の積極的な拡大を良しとはしない考えがある。拡大すればするほど、体と時間が拘束され自由を失うという理由である。コンパクト化された中で生活満足感を十分に得ているのである。外へ向ける目よりも内に向ける目の方が強く、その表れが「家族主義」57)である。

かつて、日本がそうだったようにイタリアでは一家団欒の食事の習慣が続いている。事実、食に関する関心の高さ、食事時間の大切さは時間の長さに比例している。いまでも昼食には、自宅に帰って家族と共に食事をとる習慣も残っている。食事の最後であるデザートでは、高い頻度でチョコレート菓子とコーヒーが食卓に登場している。チョコレートは、食の中で、家庭の場で、公共の場で確実に息づいている。

イタリア人はイタリアという国、そのものよりも、自分が生まれ育った場所を大切にする地域意識が高いのである。その中でも、トリノは地域意識が高く経済的にも、文化的にも力を発揮している。冬季オリンピック大会を機に、衰退していた都市を再生させる原動力を起こしているからである。トリノ市民の底力なのだろう。なぜならば、都市がこれまでの産業イメージを払しょくし、新しい産業イメージを創出していくことは容易ではないからだ。

日本は、アメリカ型の大量消費・使い捨てに慣れてしまい経済至上主義・効率至上主義の中で独自の文化を見失ってきた。文化は、楽しいものであり生活を豊かにしてくれるものである。現在の日本は、文化の疲弊により、都市も人も無個性化し価値を失いオリジナリティが欠けていく傾向が強いようである。

今日の日本は、経済にあまりにも重点を置きすぎているように思われる。物質的な飽和状態にある現代社会の中で「物の豊かさ」から「心の豊かさ」を考える上で、イタリアの文化をチョコレートから見ることによりイタリアから学ぶことは多い。それは、同族経営の在り方や大量生産・大量消費ではなく少量生産・少量消費といった、いわゆる身の丈経済をつくることである。

「成長こそが美徳」という、国家戦略及び企業戦略が重視される中、本来、チョコレートは文化的財であるはずなのに、現状は消費財として扱われることになってしまっている。しかし、それはカルチャー、生活であるということを忘れずに再認識していくことが文化の均一化、均等化から抜け出せる手段だと考えられる。この研究からチョコレートを通してトリノの生活文化を知ることは日本の文化を知ることである。

この研究を通してイタリアの文化を知ることにより、日本の今後を考えていく上で、経済に偏るのではなく、もっと自国の文化の大切さをバランスよく見ていくことが肝要である。そして他国をリスペクトすることがグローバル社会の中での新しいコミュニティに繋がると考える。ここに、本論文の意味があると思われる。未だ論じ残してきた問題は多い。今後、この考察を積極的に発展させていきたい。