Ⅰ チョコレートの街・トリノ

2.チョコレートの歴史と現在

チョコレートの原料であるカカオは、紀元前南米メキシコで生産されており、14世紀ヨーロッパ・スペインに初めてもたらされた。このカカオをサボィア侯爵フィルベルト・エマニュエーレがサボィアの本拠地トリノに持ちかえり、カカオを原料にしたチョコドリンクがイタリアの特権階級の間31)で広まったといわれている。

1678年、一般にチョコレートドリンクが浸透し、トリノにはヨーロッパ各地から多くの菓子職人が集まりチョコレート工房が開店している。18世紀後半には、産業革命の影響を受けてチョコレート製造の技術が改良されると、多くのチョコレート企業が誕生している。当時、1日に350キロを生産していた。トリノがチョコレートの街といわれる所以である。その結果スイスやベルギーからも、菓子職人が技術を習得し持ちかえっている。それは現在のスイスのネスレ社32)、リンツ社33)、ベルギーのゴディバ社34)であり、トリノはチョコレートのルーツである。

トリノは19世紀イタリア統一後、いち早く都市計画を行い宮廷文化になった都市である。宮廷文化が生まれたところには職人文化も生まれた。物づくりに対する意識の高さは今日につながっている。その頃に、飲むチョコレートドリンクから食べる固形チョコレートへ進化し、トリノ発祥のチョコレート菓子「ジャンドィオット」が生まれている。

「ジャンドィオット」とは、イタリアが独立国家となる前の戦時中にカカオパウダーが不足した際、ピエモンテで収穫される上質なヘーゼルナッツをペーストにして混ぜて作ったチョコレートである。カファレル社で最初に作られているが、現在では他社でも独自に生産を行い、チョコレートの代名詞になっている。統一後、初代首相のカブール35)は諸外国との外交にもチョコレートを贈っていたほどである。

また、17世紀にはチョコレートエ房の開店と同時にチョコレートを飲ませるカフェが生まれた。カフェでは、チョコレートドリンクにコーヒーとミルクを混ぜた飲み物「ビチェリン」が生まれ、市民の朝食として代用された。チョコレートが朝食として、お菓子として市民の食生活に浸透し始めたのである。現在も、多くのカフェでオリジナルの「ビチェリン」が作られ提供されている。

その後、パンに塗って食べるペースト状のチョコレートクリームが開発され、大人だけではなく子供の食生活のいち部として食卓にチョコレートの浸透が広がっていった。現在、世界中で生産させている「ヌッテラ」36)である。トリノ郊外に本社を有するカファレロ社の「ヌッテラ」は世界ブランドに成長している。イタリアだけでも生産量は、17万9000トンありその人気の高さが窺われる。チョコレートは、街の中で家庭で嗜好され、老若男女問わず市民生活に根付いていったのである。17世紀、初めて一般市民にもたらされたチョコレートドリンクは、「チョコラータカルダ」というホットチョコレートと進化し、冬の飲み物として市民に愛飲されている。

国際菓子協会/欧州菓子協会によればイタリアと日本の一人当たりのチョコレート消費量は2006年では、イタリアが4.2kgで日本がその半分の2.2kgとなっている。イタリアでは、チョコレートを食べることは毎日の習慣となっている。イベントも盛んに行われている。現在の主な取り組みとしては、次のものが挙げられる。

(1)「chocopassチョコパス」

チョコレート専門店・カフェでチョコレートの割引や特典サービスが受けられるカード。トリノ市内の観光案内所で取り扱っており、1枚12ユーロで3日間有効となっている。自分の嗜好用としては勿論のことチョコレートをお土産に持ちかえる観光客には嬉しいサービスである。

(2)「cioccolatoチョコラート」

毎年春に行われるチョコレートの祭典であり地元のパスティチェリア、カフェ職人は勿論のこと、世界中のチョコレート職人がオリジナルのチョコレート菓子の技を披露し、チョコレート技術と質の向上に努めている。このイベント期間中は、チョコレートを通して街全体が活気に濫れアートや音楽、演劇などで地域間のコミュニケーション、外部との文化交流の場を創っている。

毎年10日間の会期で約90万人が参加、5.2トンに及ぶチョコレートが売買され1万杯のチョコレートドリンクが試飲される。チョコレートによって地域の経済効果が高められている。